2008年 03月 20日

ガンダムは魔物という誤解のこと

・さて、今回はNT誌に連載されている藤津亮太氏のアニメ評論「アニメの門」から08年4月号に掲載された「ガンダムという魔物に対抗するために」を取り上げます。
 冒頭にに結論めいたことから言ってしまいますが、「ガンダム」が魔物なのではなく「ガンダム」を勝手に魔物にしてしまっているのです。言い換えるなら、それは「ガンダム」を神の偶像として祭り上げている、ということでもあります。
 では、それを行っているのは誰なのか、ということになろうかと思いますが…これは最初の発端は兎も角、事ここに至っては製作サイド、スポンサー、マスコミ、ファン、マニア、etcetc。これら全てが自覚無自覚の違いなく、共謀し、加担していると言わざるを得ないのだと思います。
 そういう意味では「ガンダム」を題材に多種多様な見せ方を可能に出来たかもしれない可能性を秘めた平成シリーズを潰してしまった「X」の罪というのは意外と大きいのかもしれません-やればいいというものでもないという反面、まあ、某ライダーみたいに作品としては微妙なものが続くのだとしても、時に優れた作品を生み出すということもありますから。

・と、まあ、こんなことを考えつつこの評論ついて徒然に書いていければ、と思っております。お暇な方はどうぞ先にお進み下さい。
 あと、適宜、引用は行いますが全文の書き写しは出来ませんので、この本記事を未読の方はざっとでも目を通して頂ければより楽しめるかと思います。

註:引用文には全て冒頭に「>」をつけてあります。また、必要と思われる所には適宜改行を行いました。



・で、今回の記事の根幹にあるのは藤津氏の認識である「公共の電波に乗せている作品は一定のレベルに到達している」というものでしょう。
 だからこそ、氏はネットなどでファンが非難する“悪手”が、
>「より問題のある“悪手”よりましな手として選択されたもの」か、あるいは「“悪手”に見えるが計算通り」のどちらかである可能性が高い
という結論に達しているのではないかと考えます。
 -無論、これが氏が信じていない提灯記事という可能性もありますが、ひとまずそれは考えないでおきます。僕としてはこれが迷信とか信仰に近い考え方であることは過去の作品を思い出せばすぐにも分かることだとも思いますが、何をどう信じるかはその人の自由ですし。

・さて、今回のお題でファンへの反論として取り上げられているのは二点。その内の一つが#4「対外折衝」において刹那が水中に潜り、一気にコンテナに辿り着くというシーン。
 自分としてはこっちは然したる問題ではなく、寧ろその直後の東京湾のど真ん中でエクシアが離水し、飛翔するというシーンの方が駄目だろうと思ったのは感想の通りです。
 正直に言えばこの潜水シーンを問題視するのは疑問だし、揚げ足取りに過ぎないんではないかと思います。同様に、#8「無差別報復」でバイクからエクシアに飛び移るシーンも。
 これについては氏の意見に一部同意します。ドラマの流れや尺などを考えれば、そういう表現とか演出というのも必要だとは思いますので。ただ、やり方や出来具合は、と問われれば及第点をあげられるものではない、とも思いますが。

・しかしながら、もう一方の#8の一連のシーンについては擁護出来ない代物だったでしょう。幾ら言葉を費やしても、虚しく響くだけです。
 つけ加えるらば、#8という回はあそこだけが酷いのではなくそこに至るまでのお話も首を傾げる出来だったですし、これを受けての#12の描写もこれをフォローするものではありませんでした。
 後者はどういうことかと言うと、マリナ、バイクで走る刹那をアザディスタン人と認識→実は刹那はクルジス人(なので、刹那は人種的にはアザディスタン系、ということならフォロー出来た)→しかし、刹那の顔は遠目にも見れば分かるくらいのクルジス系→何故、マリナは見間違えたのかは永遠の謎-ということになります。
 ですので、これについてはもう“悪手”でしかないのではないかと。確かに、全体の構成には瑣末なことかもしれませんが、ここは刹那とマリナが初めて邂逅し、刹那が感情を吐露するという重要なシーンでもあります。
 そういうシーンだからこそ、もう少しマシな見せ方をして欲しかったと思いますね。

・こうした問題が所謂「ガンダムらしさ」という問題に起因するものだ、という氏の主張を肯じることは僕には出来ない。事の本質はスタッフが自らが造り上げようとする作品のカラーをどうしたものにするのか、という部分に対する共通認識のなさから来るものではないかと思う。
 「G」のように裏も表もなく、スーパーロボットものとしての体裁を取るものであるなら、成程、前述の荒唐無稽な刹那の行動も問題なく視聴者から受け入れられるだろう(無論、マリナの問題はこうした部分に拠るものではないのであるが)。
 しかしながら、「00」はそうしたスーパーロボットとしてのガンダムではなく、通説としてのリアルロボットを指向して作られている作品の筈。そうなれば、そうした全体の流れと相反するような描写が上手くないという考えがあっても仕方ないという気もする。
 けれど、それは決して「ガンダムらしさ」が足らないからではなく、それまで描いて来た「00らしさ」とは反している、ということなのではないかと思うのであります。
 なので氏が言う所の、
>その上でこのシーンの果たした役割を考えると、日常生活を見せながらテンポよく戦闘へと場面転換をしたいという意図が、まず明確だ。
>さらに言えば、リアルということばに縛られてテンポが落ちるより、むしろこれくらいの漫画っぽさ、外連があるのが「00」であるという主張も見える。
>そういう意味で、この場面は「計画どおりの“悪手”と言える。
ということではないのです。
 もし、仮にスタッフが「00らしさ」を真剣に考えていたなら、ああいう安易な表現や演出を取るとは思えないのですよ。それは自らが過去数話に渡って描いてきたものを否定することにすらなりかねないのですから。
 だから、こういう主張を本当にスタッフがするのであるなら、もっと吟味して「00」のカラーを壊さないようなやり方を考えなければならないのではないですかね。
 何故なら、視聴者に『「00」とはリアルロボットものであり、スーパーロボットものにはないリアルを描くものだ』ということを信じさせるように仕向けたのはとりもなおさず、スタッフそのものなのですから。
>これもまた『リアルであろう』とする「ガンダムの魔物」が招き寄せたものである。
 などということは妄想に過ぎないし、責任転嫁以外の何物でもないのだ、ということをファンはよく知っているのです。

・この他、刹那のキャラクター造形や本編中の描写についても紙幅が割かれているのですが、この部分の失敗まで「魔物」の所為にするまで行くと苦笑いするしかないですね。
 この問題とはこれまでも繰り返し言って来ましたが、純粋に物語を描く視点が多岐で散漫である、というだけのことでしょう。以前も挙げた通り、登場人物が多く、そしてそのそれぞれに焦点を当てていることで平坦というか表層の部分しか描くことが出来ていないのですから。
 それでいて、キャラクターの過去というものは複雑に設定されています。これではきちんとそれぞれのキャラクターを描く、ということはまず不可能でしょう。
 この部分において「00」は前作の「種」「種運」にも遠く及びません-いや、この二作の出来がいいということでもない、というのもあわせて繰り返し書いて来たことですが。
 刹那のキャラクターが描きたかったのであれば、もっとキャラクターの数そのものを整理し、その上でもっとそれぞれの関連を意図的に結び付けて行くべきではなかったかと思います。
例えば、刹那を東京に常駐させることで沙慈との接点を自然に増やし、両者の考えの違いからそれぞれの人物を描き出すとか。
 また、もっと早い時期にグラハムらライバル級のキャラクターを一同に介させ、同じフレームに収めることで効率化を図る。政治家のシーン等、不用なパートは基本的に切る。まあ、こんなものは素人考えですから、検討されても却下された「より悪い“悪手”」なのかもしれませんが。

・いや、まあ、スタッフさん達の苦労も分かります。特に「ガンダム」と名の付くものを作り上げる為には、実際の製作作業だけではなく、様々な些事を解決せねばならないということも多少ながら承知しております。
 けど、それでも評価は出来上がったものを見て判断するしかないんです。残酷ではありますが、そういうことでありましょう。
 そして、「00」は残念ではありますが、あまり面白くないと僕は判断しております。けれど、世の中にはそうではない判断を下している人も少なくありません。実際、某SNSのコミュニティではロックオンの死にショックを受けた人々の書き込みが一杯でした。
 僕と彼ら、どちらの判断が正しいのかは分かりません。これから先で付くのかもしれませんし、付かないのかもしれません。或るいは、一度定着した評価が覆される、ということも充分にあり得るでしょう。
 けれど、今の僕ははっきりと「面白くない」と、そう思っているのです。
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by shunichiro0083 | 2008-03-20 11:47 | 感想「00」


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