shunichiro0083のアイのダメヲタ日記-感想と推測と妄想の終わらない円舞曲

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2006年 07月 17日

「種」の設定全般のこと

※最初に
:ええ、今回も結構きつい内容になるかもしれません。
 端から真っ向否定するような文章ではないと思いますが、それでも読まれる方によってはかなり不快な気持ちになるかもしれません。
 ですので、熱狂的でかつ「SF」として「種」シリーズを支持されている方は続きは読まない方が宜しいかと思います。
 警告はしました。以後の文章を読むのはここの判断であり、その結果は自己責任であることをここに明記しておきます。
 また、今回の記事は以下のリンク先を読んでからの方がより理解出来る-というかそうしないと理解出来ないと思われますので、この記事の続きを読む前に以下の記事を読んでおいて下さい。

ASTRAYなブログ SEEDの設定について思うこと(その1)

裏トミノブログ 姫様の勘違い



・と、いうことで上記の二つの記事を読んで頂いている、という前提で始めさせて頂きます。
 ちなみに、今回取り上げるのは主に「ASTRAYなブログ」の方で、「裏トミノブログ」は当方の自説を補強する材料、ということになります。
 一応、念の為。

・で、千葉氏のブログでは「種」シリーズの設定についての感想を書いておられるが、どうにも気になるのは「世界観」と「設定」を混同されているのではないか、ということ。
 C.E.で言うなら、
・遺伝子調整を受けた優良種・コーディネイターと、通常人類たるナチュラルは深刻な対立関係にあったがついに戦争状態へと陥った。
・その戦争においてはザフト側の新兵器・核分裂を阻害するNジャマーと、汎用機動兵器・MSが猛威を揮い、地球連合軍は劣勢に立たされていた。
・それを挽回する為に開発された連合のMS・Gには物理攻撃に絶対的な防御力を持つPS装甲が装備された、これは電力と引き換えにビーム攻撃以外をほぼ無効にすることが出来る。
ここいら辺が数ある「種」シリーズの「設定」の中でも、作品全体と密接に結びついた最重要設定-即ち「世界観」と言って差し支えないものではないかと思います。

・思うに、千葉氏がブログで言及しているファンからの批判の多くは枝葉末節の設定の不備とかではないのではなかろうか-少なくともここで取り上げたのはこうした「世界観」であり、また、前後の描写で食い違いが見られる不徹底なものであったと思うのだ。
 千葉氏は「設定」と「世界観」をイコールとしているが、実際はそうではない。繰り返すが、全ての「設定」は「世界観」ではないのだ。
 だから、「世界観」さえしっかりと作ってあるなら、あとはそれを発展させていけばいいのである。「種」で言うなら、Nジャマーに対するNJキャンセラーがそれに当たるだろう。
 この設定があるからこそ、自由や正義が核エンジンの無限動力で動いていても視聴者は不審に思わなかったし、再び起こる核攻撃そのものには議論の余地はないのである。
 言葉を変えれば、「世界観」がしっかりしていて、前後の描写が深刻なまでに食い違わないなら後付けでも十分対応出来るのではなかろうか。それが、「機動戦士ガンダム」の諸設定なのであろう-尤も、これはミノフスキー粒子という設定が偶然ながら、大きな役割を果たしているのであるが。

・千葉氏はどうやら諸々の「設定」は「世界観」の上位にあると考えておられるようだ。だが、たとえシリーズに続編が作られるからと言って、常に新しい「設定」が生み出され、それに「世界観」が従うのではない。
 前作の「世界観」や、物語の中で提示された「設定」を膨らまし、転がしてゆけばそれで新しい「設定」が生まれるのではなかろうか。
 「Z」ではスペースノイドを弾圧するティターンズという組織が敵として登場するが、それは「機動戦士ガンダム」がスペースノイドのアースノイドからの独立戦争であった、という「世界観」から導き出されたものであり、それは過去を-前作の「世界観」を否定などしない。
 「世界観」はドラマを縛り、登場人物を埋没させるものではない。むしろ逆で、ドラマを動かし、登場人物にリアリティを与えるものが「世界観」というものの筈である。
 「種運」を例に出すなら、シンがオーブ攻防戦において家族を失ったが、そこには敵を討つ自由の姿があった、というドラマは前作である「種」の物語からすれば十分あり得ることである。だからこそ、視聴者はその説明に不審を抱かない。
 だが、それが後々の回想シーンでは自由の姿がカットされ、シンの家族が死亡したのは自由の攻撃によるものとシンは思い込んだ、という描写はなくなるのはおかしいだろう。これをシンの過去=「設定」がドラマの途中で改竄されたとファンが受け取ったとしても、別段不思議ではないのではなかろうか。

・ここで「裏トミノブログ」の記事を思い出して頂きたい。これは設定を扱う際のミスを上手くフォローしていると、僕は思う。
 これでこのままリュクスの姫さまがどんなフェラリオに会っても「チ・フェラリオ」と認識しているということで通せば、それはもう立派な設定である。千葉氏の言う所の「細部修正」にも通じる所があるのではなかろうか。
 現時点でこのエピソードが本編に登場するかどうかは微妙なようだが、出来ることなら漫画版では上手く回収して欲しいものである。

・閑話休題。
 だから、物語が当初の予定より長く続いたとしても、「世界観」が「設定」を否定するのではなく。「世界観」に沿った新たな「設定」を起こし、物語を語っていかなければならないのだと思うのだ。
 そして、最初に形作られる「世界観」は物語の大元であるが故に、厳密にするのではなく幅を持たせた造りでなければならない、とも思うのだ。「機動戦士ガンダム」というのもそういう作品であったと、当時から見続けて来た視聴者の一人として強く思うのである。
 嘘をつくのはかまわない。フィクションで、エンターテインメントである以上、それはもう宿命のようなものである。だが、一度ついた嘘はつき通さねば本物にはならない。
 千葉氏は「説明」と言っているけれど-「設定」を敢えて説明や描写したりせず、意図的にぼかすのもテクニックとしては問題はないだろう。ただ、それを「世界観」の領域でやってしまうのは正直どうかと思うが。
 この辺りを巧く使い分けられるかどうかが、ストーリーテラーの優劣となるのではないかと思う-これはファンの贔屓目かもしれないが、千葉氏は制約の多い中で結果を出しているのではないだろうか。問題は(以下略)。

・と、いう所で千葉氏の記事は明日以降に続く、となっているのでこの項も続きます。
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by shunichiro0083 | 2006-07-17 02:06 | 設定


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