2005年 10月 11日

「種運」のストーリー構成に関する一考察のこと

・以前、「種」や「種運」のドラマの構成に関して「群像劇である」と評したことがあります(こちらを参照のこと)。
 しかし、今にして思えばこの「群像劇」というスタイルは三人の主人公を置く「種運」にのみ顕著なもので、「種」はむしろ「串団子形式」や「しめ縄形式」と呼ばれるものなのではないかと思い始めています。
 ちなみにこの「串団子形式」というのは戦いの連続でスイトーリーを進めるというやり方であり、これに複雑なサブ・プロットを絡めたものが「しめ縄形式」と呼ばれるものであります。
 では何故、「種」と「種運」はドラマの構成が違うのでしょう。

・それは基本的に「種」というアニメが、主人公たるキラ・ヤマトを中心に進んで行ったからであり、同時にキラの戦いの記録に他ならないからです。
 ストーリーの展開上、キラが不在で話が進むこともありましたが、それはあくまで必要最低限であったと思います。特に話のターニングポイントとなる戦闘には、必ずと言っていいほどキラの姿があったと思います。
 カガリやムウ、アスランと言った脇役の話もあったとは言え、それはあくまでも枝葉でしかなく、「種」と言うドラマの本筋はキラにこそあった筈です。だからこそ、「種」というドラマで戦闘の最後を飾ったのはラウ=プロヴィデンスとキラ=フリーダムであったのでしょう。
 そしてそれこそは「串団子形式」であり、古典的な「御前試合もの」とも呼ばれる古典的な手法であった訳です。

・一方の「種運」のスタイルが「群像劇」であったことは、既に指摘した通りです。それはつまる所、本流とも言うべきメインのプロットから発生した複数のサブ・プロットが並列して進行しつつ、最終的には収束して大団円を迎える、というものだと僕は理解しています。
 そうした形式で「種運」を捉えるなら、アーモリーワンにおけるガンダム強奪という事件を出発点に、シン・アスラン・-やや遅れて-キラ、という三つのサブ・プロットが存在していたのだと思います。いや、更には隠れていたもう一つのサブ・プロットたるデュランダル議長のそれを除外することは出来ないでしょう。
 つまり、「種運」というドラマは変則的ではありましたが、四つのサブ・プロットからなる「群像劇」であったと理解出来る訳です。
 だからこそ、シンが主人公であるとアナウンスされながらアスランの出撃によって実質幕を開けた物語は、議長と対峙するキラという図式で終了することが出来たのではないでしょうか。

・ネット上でしばしば拾われる意見に『「種運」は「種」に比べてつまらなかった』というものがありますが、それはこの両者のスタイルの特性の違いによるものでしょう。
 最後の参考にした記事を読んで頂ければ分かるのですが、「串団子形式」が多分にキャラクター原理主義になるのに対し、「群像劇」とはキャラクターの描写に抑えた筆致が必要とされます。ドラマそのものが持つ魅力よりも、個々のキャラクターが自己を主張してはいけない訳です。
 譬えるなら「串団子形式」とは全体の流れよりもその場の勢い=アドリブを重視するジャズの演奏であるとするなら、「群像劇」とは全体の構成の細部までも突き詰められ、それぞれの役割が決定しているオーケストラである、という感じでしょうか。
 「種」とはまさにそういう「如何に魅力的なキャラクター達を輩出させるか」ということが命題であったのですが、「種運」でそれをやることは自殺行為にも等しいことです。それは全体のバランスを崩すと言うことに他ならないからですが、「種運」はそれをやってしまいました。
 繰り返しますが「種」は「串団子形式」を採ったアニメであり、それを成功させる為には数多くの魅力的なキャラクターや戦闘が描かれねばならず、そしてそれはその意味において成功したと言っても差し支えないでしょう。
 現行のファンは、極度にキャラクターに対して思い入れを強める傾向がありますから、そういう意味では「種」は近年のファン気質に上手くマッチしたアニメであったと言えるのではないかと思います。
 続編たる「種運」でもこのキャラクター原理主義は導入されたものの、作劇スタイルとしての「群像劇」との相性の悪さから「種」ほどの効果を発揮することが出来ず、結果的に前作からのファンから評価を得られなかったのではないかと愚考します。

・更には「群像劇」とは極めて相性の悪いキャラクター原理主義は「種運」というドラマを迷走させる、大きな要因となってしまいました。結果的か意図的なものかどうかは兎も角、物語中盤で主役交代とも思えるような展開になってしまったのはそういうことでしょう。
 これによって、「種運」は独立したアニメーションとしての評価も不本意なものになってしまったのではないでしょうか-勿論、ここで言う評価とは“商品”としてではなく“作品”としてものです-。
 ただ、これは個人的な好みの問題ではありますが、僕としては「種」よりも「種運」の方が面白く見られたのも事実です。これはおそらく、「串団子形式」よりも「群像劇」の方が、僕の好みにあったからでしょう。
 そうでなくては、「種」は2クールで視聴を辞めたのに、ぞの続編である「種運」を一年間見通したという理由が思い当たりません。
 「種運」が批判されてしまう理由というものは色々あるとは思いますが、その大きな要因としてこうしたドラマの構成方式と手法の食い違いという、根本的な食い違いがあったのではないかと僕は思わざるにはいられません。


※参考にした記事

たけくまメモ『テヅカ・イズ・デッドを読む』補足

 以上の記事を全面的に参考にさせて頂きました。最後になりましたが、筆者の竹熊先生に厚く御礼申し上げます。
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by shunichiro0083 | 2005-10-11 00:17


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